分かり合えるというおもい込み。

分かり合えるというおもい込み。

こんにちは。高橋です。今日は、美術家の104歳の篠田紅桃先生の映像がNHKで流れていました。

そんな篠田先生のVを見て思い出したことがありました。

私が中学生のころ、とても孤独を強く感じた時期がありました。

家庭環境や状況が機能不全状態だったのですがそれに加えて成長期であり、思春期です。

心も非常にもろくなったり、過剰反応したりします。(ホルモンには勝てません)

そのころに、あまりの孤独に、夜な夜な布団に入り、声を押し殺して泣いていた時期を思い出したんです。

なぜなら、毎晩泣いていた夜、突然、

『そもそも人間は分かり合えない』という結論に達して、

私は『まあ、いっか。』と腑に落ちて寝てしまいました。

これは、刹那的解釈ではなく、非常に建設的でした。

『分かり合えないようになっている』という感覚が腑に落ちた私なりの哲学でした。

心のからの発見というのでしょうか。

考えて考えて感情的になり、とことん自分を追い詰めて考えたら、このような自分なりの答えが出てきて、腑に落ちた。ということ。

分かり合えるわけがない。

だって、そもそも、同じ肉体ではないし、家族であっても、他人である。

という結論です。

そもそも、分かり合っているっていうこと自体が、思い込みや自己満足なのかもね。。。と。

どこかそれは、他人を拒絶しているようなニュアンスさえあるのですが、

私はとても合点がいったというの感覚でした。

誰かと比べるものでもなく、その人が持ち合わせている感覚や価値観を家族だから、または、夫だから、パートナーだから、友達だから、母親だから、、父親だからという『カテゴリー』で、

 

『分かり合っているという勘違い』が起きていると気づけたのです。

思春期ですし精神的な自立や価値の構築が始まっていくわけですが、そのころに、分かり合っているという勘違いをしているから、そもそも、本来分かり合えないというのが人間なんだから、

別に孤独だっておもうことではないよね。と。

孤独じゃない仲間がいるのは、分かり合えているという追い込みからくる、勝手な安心感なんだと気づいたのです。

だからといって、誰かといるのはとても大好きですし、楽しいです。

でもね、そこにエゴを入れてわかってもらおうとすることがとてもおかしなことだと気づいたのが、この中学時代でした。

それ以来、親だからわかるはず、わかるべきというのはやめることにしました。

前向きに期待しないのです。私にとっては究極の精神的自立がスタートした時でした。

 

篠田紅桃先生が『分かり合うなんて無理』ということをおっしゃっていて、

そうそう。わかるっていう勘違いしてるから、おかしなことになるよなーと思い出したのです。

先日、ある若い10代のとても賢いクライアントさんがセッションに訪れ

『人間はそもそも孤独でお互いにすべてをわかることは到底無理だ。』と言っていました。

 

私は、『そうだね。全てをわかることは無理だね。』と共感しました。

その彼なりの結論が出ていたわけですから、それが最高の今の答え。

でも、その孤独を抱えて生きているからこそ、私たちはそのカン違いや少しだけ共感したり、孤独を抱えたそれぞれの価値観を持った人間が団結したりすることが素晴らしいと私は感じています。

わかっている。

知っている。

理解している。

 

は、到底カン違いなんですよね。(笑)

 

私も夫に対してもそう思っています。

毎度毎度、夫を観察して、なんという珍しい生き物なんだろう!!と驚愕しているのです。

そもそも、夫婦ですら、理解しあえているというのがおかしなエゴですし、親子でも

『分かり合えません』。

分かり合えないから人間だし。わかっている、わかってほしいと思うからおかしくなる。

わからない、でも、わかろうと努力している、少しでも、相手の心を知りたいという気づかいが私は最高の他者に対する『興味という思いやり』だと思っています。

 

他者に興味を抱いた時点で私たちは自動的に思いやりが発生してるのです。

 

今更ですが、大切なことは、

理解しているというのではなく、

『その対象に興味がある』ということが、私はコミュニケーションの第一歩だと思います。

だからこそ、孤独でいいし、そもそも、孤独を嘆く必要もないのです。

いかに、孤独と上手に付き合い、孤独を上手に使い、孤独を相手にしながら、自分と対話して思考を巡らせるか?

これが、とても重要だと思います。

息子はずーーーーっと一人で遊んでいます。それで簡潔してるのだからそれでいいのです。

そして、息子は、一人で遊んでいるのですが、それを共有しようとはしません。

私がそれに興味がないことを知ってるのです。

興味がないから、誘わない。それだけ。

息子は一人でそれを堪能している。興味を私に押し付けてきません。

その『境界線』は大切ですね。

他者と自分を分離させることが私はまず、成長の第一歩だと思います。

目の前の人と、私は違う人間であり、違う価値観。

興味があるからこそ、大切にしたいと思うからこそ、その違う価値観を尊重して、互いに『工夫』していく。

わかってもらいたい、わかってほしい、わからない人はダメというのは、『精神の万引きレベル』なのです。心の犯罪ですね。

他者との違いを楽しみ、また、自分の孤独を大切に上手に使い、自分を磨いていく。

外側に何かを求めるよりも、自分の内側に見出した『結論』が少しでも他者と共有、共感できたら、儲けもん。だと思えたら最高に生きることが楽になる。

苦悩は、孤独と向き合わないから起こるもの。

 

私たちは分かり合える前提の思い込みを手放したらもう少し

賢くなれるのかもしれないと感じた、今朝のコーヒーブレイクでした。